ラーマの日記

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2013年 08月 04日

「意志」の本質とは?


カルロス・カスタネダの著作、ドンファン・シリーズ第二巻「分離したリアリティー」の中で、メキシコのヤキ・インディアンであるドンファンは、シャーマンの操る「意志」について述べていた。

私たち普通の人間が意志を行使する時には、その人の霊的レベルに応じた意志の行使が許される。サイババやイエスのような大師たちはアートマン(超越意識)を顕現しているので、その「意志」で、宇宙を一瞬で創造することもできる。インドの天啓聖典には、聖者ヴィシュヴァーミトラが、この宇宙とは別の宇宙や神々さえも創造したと書かれているが、サイババはこれらの出来事を事実だと言っている。でも、このような行いは至高神の願いとは一致しないので、ヴィシュヴァーミトラの宇宙は長続きしなかったそうだ。


ルドルフ・シュタイナーも、『いかにして高次の世界を認識するか』という本の中で、心の活動が停止した時に、はじめて「意志」の行使が許される、というようなことを述べていた。私たち普通の人間が、「アイツ憎い」とか思ったりする意識レベルで、もし「意志」を行使できたりしたら、それこそ世界は終わってしまう。

人間の心にはトリグナという3属性がある。浄性(サットヴァ)、激性(ラジャス)、鈍性(タマス)の3つだ。インドでは、サットヴァが優勢な者はブラーミン(僧侶階級)に生まれ、ラジャスが優勢な者はクシャトリヤ(王族・統治者)に生まれ、タマスが優勢な者はヴァイシャ(商人)に、タマスが輪を掛けて優勢な者はシュードラ(隷民)に生まれ変わるとしている。これが四階級ある、「カースト」と言われるものだ。

上の階級の者ほど神の「意志」に近く、下に行くほど神から離れていく。私たち日本人は殆んどが商人だから、インドに於けるヴァイシャ系が多数を占める民族と言えるかもしれない。インド人と違って、霊性や道徳性を学校で教えないから、施しや慈善活動が許されなくて、ヴァイシャのレベルに留まることになる。こうした魂の傾向性は、前世からの常習が持ち越されたものだそうだから、そう易々と変えられるものじゃない。木の年輪のように「施し歴50年」とか「慈善活動歴100年」とか、レベルに違いがあって、各人はそれぞれの傾向性に応じた道に進むことになる。

ドンファンは、ある時カスタネダの車を「意志」で止めたりしていた。「お前の車が何であるかを、わしは知っている。わしにとっては、お前の車はスパーク・プラグだってことさ」と言った後、カスタネダにエンジンを掛けてみろ、と促すが、掛からない。続けて、「今、お前の車を解放したぞ。エンジンを掛けてみろ!」と言うと、エンジンが掛かるのだ。

ドンファンは、私たちが歩くのも、何をするのも、「意志」の力が無ければ不可能なのだと言う。また、「わしは自分の『意志』が、きちんと健康になるまで、生涯を通してそれを鍛えてきたんだ。だから、どうでもいいっていう事さえ、どうでもいいのさ。わしの『意志』が、わしの生活の愚をコントロールしとるんだ」というような、意味深なことも述べていた。私たちが意志と言うのと、彼らが「意志」と言うのとでは、意味に隔たりがあるのだ。

ドンファンは他にも、「意志」について独自の見解を示す。

「お前の言う意志ってのは、勇気とか強い気骨のことだろうが、わしの言う意志ってのは、体の真ん中から出てきて、外の世界にへばりつく力なんだ」

「わしらが世界を眺めたり、その音を聞くと、それはすぐそこにあって、しかも現実だという印象を持つだろう。だが『意志』を使って世界を知覚すると、それが思っているほど『すぐそこ』にもないし、『現実的』でもないことが分かるのさ」

「『意志』ってのは、わしらの行動を命じることのできる、明晰で強力なものだ。たとえば、どう見ても負けそうな戦いに勝つために使うようなものだ」

「勇気がある奴は頼りになるし、人に取り囲まれて尊敬される高貴な人間だが、『意志』を持っとる奴は殆んどいない。普通、奴らは常識的なことを向こう見ずにする恐ろしい連中で、いつも恐れられとるんだ。だが『意志』は、常識を破る、驚くべき離れ業と関係があるのさ」


このような強化された「意志」を管理するのは、「心」には不可能だ。心は知性に従属し、知性はアートマン(超越意識)に従属する。そのため、“心のパターンが消滅する”と言われる「サヴィカルパ・サマーディー」の段階から、『意志』の行使は許される。「神の子」に昇格する「ヴァシシュタ・アドワイタ」の境位から、神の力を使うことが許されるのだ。

ドンファンによると、この段階では、『意志』(力)はその人にとって重荷にしかならないそうだ。それをどう扱うか知らずに死んでゆくという。「そういう奴は自分自身を支配できないし、いつどうやって自分の力を使うか分からんのだ」と言っていた。

その人が修行によって更に前進して、アドワイタ(不二一元)と言われる「ニルヴィカルパ・サマーディー」に到達すると、心そのものが消滅してアートマンを直接に知るので、神と一体化することになり、イエスのように、自在にその力を行使できるようになる。

私たち一般人と、アートマンを実現した者の違いは何か?サイババもドンファンも、それは欲望をゼロにすることを学んでいるかどうかの違いだ、としている。確かにブッダにしても、イエスや空海にしても、アートマンを極めるような者というのは、修行に入る前に一切を捨てている。修行衣とか托鉢のお盆以外はほぼ無所有で、最低限必要な物しか所持していない。

アートマンは常に「目覚め」「夢見」「熟眠」という3つの意識状態を照覧しているそうだから、彼ら修行者の内面・外面の一切を知っているため、やはり修行者がそれに相応しい清浄さに到達した時に、「この者はアートマンを受けるに相応しい」と認めた瞬間に、アートマンを授けるのだ。

ブッダ、イエス、空海といった人格は、霊的にそれを受けるに相応しい純粋さに到達したから、その純粋さに応じた報いとしてアートマンを受けただけなのだ。

それにしても、世俗の者が悩み煩うところの「異性と金」から解放されて、アートマンを極めるために邁進することを許された魂というのは凄い。ラーマクリシュナ・パラマハンサ、アマチ、ラマナ・マハリシのように、実際に指折り数えるほどしかアートマンを実現できた者はいないのだから、これは聖典バガヴァッド・ギーターに書いてある通りだ。神とは、何という厳しい方なのだろうか・・・。

ある時は厳父の如く、またある時は悲母の如く、誰にも知られることなく、この宇宙を護り、ダルマを維持する神。


私もいつの日か、フルタイムで修行する機会に与りたいものだ。



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by saiyans | 2013-08-04 01:28 | 人間の霊性についての考察


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