ラーマの日記

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2013年 08月 05日

空海はアートマンに到達したか?


考えてみればサティア・サイババの言葉もバガヴァッド・ギーター(神の詩)である。クリシュナの説くギーターと全く同じなのだ。クリシュナとサイババを別の人物と見るこの迷いは、自分を肉体と同一視すること、混乱から来る。修行が足りないからだ。

シルディ・サイババもサティア・サイババも、ブッダもイエスも空海も、自分の死期を予言してその通りに死んでいった。霊的治療でブラジルを救ったアリゴーもそうだ。

サイババのような本物は、神聖な力を見せびらかさない。だからサイババは日本語も使わない。インドの大学の授業は英語なので、サイババも英語は話す。スタンダードは使う。

空海も唐に渡った時は皆の前で中国語を使った。空海が生きていた当時は、日本国内でも漢訳された経典で学んでおり、皆の前で使っても自慢にならないからだ。仏教の経典は、玄奘三蔵が命懸けでインドまで旅をし、底本が純粋なサンスクリット原典を書き写して母国に持ち帰り、時の皇帝の命を受けて漢訳されたものだから、その威力は凄まじい。

アートマン(超越意識)を知れば一切を知るから経典はいらないのに、なぜ空海は唐に渡ったのか?一切を知ったのに、なぜサンスクリットを学んだのか?空海が到達した境地はアドワイタ(不二一元)ではなく、ヴァシシュタ・アドワイタ(条件付き不二一元)だったのだろうか?

「12年間精液を出さなければ、体内に “メダ神経” という新しい神経ができて、あらゆることを思い出し、記憶し、理解することができるようになる」と大聖ラーマクリシュナ・パラマハンサは言っていたが、空海は山に入ってから室戸岬で修行成就するまでの七年間とそれ以降、女と金を遠ざけただろうから、祝福される条件を満たしている。イエス・キリストの場合も、インドへ旅する際に全く金銭を持たなかったそうだから、聖賢たちの生涯には徳性の一致が認められる。

ブッダ、イエス、空海は、戒律をキッチリ守ったから、ニルヴィカルパ・サマーディー(心が完全に消滅した、究極の法悦状態)に到達できたのだ。彼らの事績を見ても、一般人の業を超えているので、まず間違いなくアートマンに到達していただろう。サイババも、信者の前でワザと分からないふりをしたりするので、多分空海も、知らないふりをしてサンスクリットを先生から学んでいたのだろう。

空海の母親は法華経を読んでいたから、空海も読んだだろう。法華経を読む者は、自然に体が動いて善行を積むようになる。空海の場合は法華経の読誦が幼少期からと早かったのが幸運だった。イエスも多分、インドかチベット滞在中に読んだかもしれない。大乗仏教の経典が編纂されたのは、丁度イエスが生きていた時代だから、インド滞在中に法華経を読んだ可能性は高い。


彼らは過去世の常習(サンスカーラ)に促されて修業に入る。聖典の学習から入る点はブッダもイエスも空海も同じだ。「本の中に真理は無い。体系的な知識を身に付けても、真理は把握されない」とシルディ・サイババは言っていたから、聖典を通しての間接的理解に限界を感じて三人共、心を超えるためにインド哲学の核心であるアートマンの知識に向かったのだろう。

クリシュナは「バガヴァット・ギーター」の中で、「私は湖水に於ける海である。山々に於けるヒマラヤである」・・・と自分の広大さを人間が五感で認識できる例えで様々に例えて、「私は諸学に於けるアートマンの知識である」と、あらゆる学問の最高峰として、絶対智・超越意識たるアートマンを説いていた。


アートマンは絶対なので、絶対音感も身に付く。絶対将棋感・絶対囲碁感も。対局時に局面を読む際、枝葉に時間をかけても潜在意識までが限界だろう。普通は深く読んでも表層の顕在意識から潜在意識が限界。超越意識はトリグナ(心の三属性、浄性・激性・鈍性)に影響されないので、アートマンを極めさえすれば、良い力を相手に与えられる。子供たちが絶対音感を身に付けられるのはアートマンに近いからだ。純粋だからだ。

過去世の汚点は、ジャパやカルマ・ヨーガの力で、現在と過去世から中間を板挟みするような感じで、サンドイッチしながら清めてゆくのが王道なのだと思う。青山圭秀さんの著書「サンカルパ」や「愛と復讐の大地」には、自分が過去世で犯した罪の報いを打ち消し、現在の障りを除くための処方箋、“償いのパリハーラム” が紹介されているが、そこで青山さんは千年ほど昔の自分の過ちをシヴァ神に告げられる。「一万年ほどの昔」という記述は出てこないので、おそらく千年前くらいが大抵の人の罪の初元なのだと思う。

償い方には、自分から積極的に善行を積んだりして、応報が現れる前に打ち消す積極的返済と、応報を慎んで享受することで返済に充てる消極的返済があるとすると、前者の場合、法華経を読んでおくと効果的だ。私は2005年2月に岩波書店の文庫版・法華経三冊を読んで以降、体が自然に善行(のつもり)を積むようになり、それは現在まで続いている。それまでも、お金を寄付するなどはしていたが、体を使って様々な善行を積むようなことは一度も無かった。

まず05年2月に、公園の浮浪者のおじさんに食べ物と飲み物を持って行ったのを皮切りに、使い古しのテント、ナップサック、本などの差し入れを始めた。最初に物を届け始めたときは、「何事か!?」という感じで警戒していたおじさんも、二度目以降は笑顔で迎えてくれた。ああいった人たちに限って人生の教訓や知恵を沢山蓄えているので、おじさんたちが自分のブログさえ開設できれば、どれほど日本のためになるだろうと思い、悔しくなる。とても残念なことだ。

おじさんたちはパソコンやワープロを使えないかもしれないから、若者がおじさんたちからアイデアを聞き取って、代理でブログに打ち込んでやればいいのだ。普段、白い目で見られたりする浮浪者のおじさんやおばさんほど、若者が知りたい人生の秘訣を知っているというのは、何とも皮肉だ。家族や学校の先生は知らないのに、彼らは知っているのだから。

罪の償い方について、消極的返済の場合は応報として受けることになるが、これは辛いだろう。インド叙事詩「マハーバーラタ」には、「シュードラ(隷民)が聖典ヴェーダから遠ざけられるように、彼らは富と祝福の世界から遠ざけられているのです」という記述がある。何らかの利他行を積んでいないと、善行招福と悪行招災を教える聖典から遠ざけられると書かれているのだ。

この因果の法則を人生の序盤で知っているか、いないかは、個々人にとても大きな差を生むだろう。知っていさえすれば若い内から善行を積めて、悪行を避けられるから福を招来するが、知らないばかりに、善を為せずに苦しむことになる。本当は「学校」という公教育の現場でこそ教えるべき事柄なのだ。こういった、現象の背後にある法則性を科学しない傾向は、敗戦後に日本が半赤化(半共産化)させられたために起きた悲劇なので、これから少しずつでも取り戻す方向で教育委員会が動かないといけない。学校で教えないから、親も子に教えられないのだ。

学校でのテスト時に下痢になり易いのは、テスト勉強をしていないことから来る不安と緊張が原因だろう。死の恐怖は、善行や修行を、今生で、生きている内に積めなかったことから来るのだと思う。

「人間てのは、そいつが持っている力の総和に過ぎんのだ。そしてその力が、そいつの生き方や死に方を決めるんだ」と、メキシコのヤキ・インディアン、ドンファンも言っていた。




参考資料

「サイラムニュースNo.158」 2014年 9 ・ 10月号
サティア・サイ出版協会

「サンカルパ」 三五館
青山圭秀 著

「真実のサイババ」 三五館
青山圭秀 著

「愛と復讐の大地」 三五館
青山圭秀 著

「バガヴァッド・ギーター」 岩波文庫
上村 勝彦 翻訳

「英知 - ニャーナ・ヴァヒニ」 サティア サイ オーガニゼーション ジャパン刊
サティア・サイババ 述 サイダス 監訳

「錆びたナイフの奇蹟―心霊外科医アリゴー」 日本教文社
ジョン・G・フラー 著

「釈迦の本」―永遠の覚者・仏陀の秘められた真実
NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 9 学研マーケティング

「新世界訳 聖書」 ものみの塔

「聖者たちのインド」 春秋社
島 岩 著, 坂田 貞二 編

「知ってるつもり?!」 日本テレビ
弘法大師 空海 2000年10月29日放送

「知ってるつもり?!」 日本テレビ
三蔵法師 玄奘三蔵 2001年9月2日放送

「空海の風景〈上, 下〉」 中公文庫
司馬 遼太郎 著

「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」 中公文庫
田中 嫺玉 著

「マハーバーラタ」第二巻 – 森の巻 – 三一書房
聖仙ヴェーダ ヴィヤーサ 著 山際 素男 翻訳

「ドンファン・シリーズ」 二見書房
カルロス・カスタネダ 著 真崎 義博 翻訳

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by saiyans | 2013-08-05 16:16 | 人間の霊性についての考察


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