ラーマの日記

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2013年 08月 05日

イエス・キリストについての検証 


イエスが家を出たのは16歳の誕生日。インドに到着するまでにかかった時間は片道2年ほど。インドに着いてから修行に費やした年月は17年間。そして2年かけてパレスティナに帰国。故郷で36歳頃に伝道を開始したはずだから、家を出た後、インドで神と合一するまでに計19年かけている。


サイババは言う。
「人間として生まれることは、特別なことである。人は存在の80%が、神の力に満たされている。動物に於いて、それは15%程度に過ぎない。人は、神との合一に至るまで自己を高めることができるが、動物は自然の状態から脱することはできない。例えば、猫に何か良い餌を与えたとしても、ネズミを見たら、餌のことは忘れてすぐにネズミに飛びつくだろう。虎を手なずけることはできても、穀類を与えれば不満だろう。殺して食べるという虎の性質は残っているのだ」  青山 圭秀 著 「真実のサイババ」より

「存在の80%が神の力に満たされている」ということは、あと20%浄化できればゴールということになる。「女(異性)と金」が神に至る道の障害物と言われるから、女10%、金10%で計20%浄化という意味かもしれない。イエスの17年間は修行一筋ということは、8年半の修行で10%を浄化し、90%神聖化されて神の子(ヴァシシュタ・アドワイタ)の段階に達した後、更に8年半かけてアドワイタ(神実現)に至ったのかもしれない。

「神の子」の段階になると「神の意志」(サンカルパ)を使えるようになるはずだが、この時に敢えて「意志」を行使したい欲求を8年半抑えることで、さらに「見事だ」と神に認められ、神実現に至るのかもしれない。例えば瞬間移動できるけど、しない。食べ物を物質化できるけど、しない。など、自分に属する、あらゆる欲望を打ち負かした時、イエスのようになれるのかもしれない。

イエスは、「幼子たちのように純粋でなければ、天の王国に入ることはできない」と言ったが、これは「ヴァシシュタ・アドワイタの段階に至らなければ入れない」という意味かもしれない。「神の子」の段階にまで自己を高めないと入れない、という意味かもしれない。

イエスは17年間修行したというけれど、これは私たち現代人の6・3・3・4の修学期間+1年を神に捧げたことになる。

通常は、学校で学ぶといっても、1つの科目を一点集中ではなく、5科目を浅く学ぶ。それ以外にも部活とか、家でのTVゲーム、外ではDS、ゲーセンなど、学問1つに身を捧げ切るわけではない。テレビ、趣味、会話などでも時間は消えてゆく。

イエスは17年間、神のみを求めた。全てを犠牲にして。例えば音楽家であっても、DVDを見たり、ネットをやったりする時間があるだろう。自分の本分のみに集中しているわけではない。

イエスの神の求め方は、音楽家が音楽だけを17年間し続けるようなものだ。勤め人なら、アフター・ファイブも無し、休日の家族サービスも無しで、会社に住み込んで帰宅せずに仕事し続けるようなものだろう。

週刊連載に追われる「少年ジャンプ」の作家でも、休む日はあるだろうが、イエスは休み無しで神を求め続けたのだ。瞑想を終えて、組んだ足を解いても、「今日も神を見つけられなかった・・・」と悲しみ、悲しみ続けてそのまま眠りに落ち、目が覚めると太陽に神を感じ、森羅万象の中に神を見、脇目も振らない。

知性が神のみに集中するイエスに対しては、オタクの人たちもリスペクトの視線を向けることだろう。オタクたちと言えども、自分の学問分野だけに知性を集中し続けるのは難しいはずだ。彼らは多分、あれもやり、これもやり、するはずだ。ところがイエスには、「神を知りたい」という願い以外、何も無いのだ。このように神を求め続ける人間が、神に祝福されないはずがない。

あらゆる分野の人間各自は、イエスのように、自分の仕事の中に神を求め続けた時、神を極められるだろう。各自の仕事を根底で支えているのは神だからだ。


イエスが生きていた当時、周波数という概念は無かったと思う。そのため、探し求めた神が、修行の末に、周波数の上昇と共に、自らの内に明らかにされるという直観は得られない。パレスティナの学校も6・3・3・4などの区切りが無かったろうから、霊性の段階では今現在自分がどこら辺に位置しているのかが分からなかったはずだ。現時点の自分のレベルを概念化できないから、どれくらい修行したら次の段階に進めるかの、目安が分からない。

イエスもおそらく「どうすれば神と出会えるのだろう?」という疑問を抱えつつ、暗がりの中を手探りで進んだのだ。しかし実は、そうした「何か」を求め続けた先に、情熱の一点集中の継続の先に、神の恩寵が待っていて、私たちが充分な修行努力を貫徹した暁には、「この者は相応しい」と判断して、恩寵を与えてくださるのだ。

神は言わば、修行者の努力を内側でずっと見ており、彼が苦しんだり悩んだりした末に、万策尽きたというところまで自らを追い込んだその果てに、恩寵を授けるに相応しい準備が整ったと判断したその時に与えるのだ。求めるその人が、「これだけやったのだから絶対に大丈夫だ。もうやれることは全てやった。後は神に任せるだけだ」と言えるまで努力を継続したならば、神はもう、その者を祝福せざるを得なくなるのだ。



参考資料

「サイババ イエスを語る」 サティア サイ オーガニゼーション ジャパン刊
サティア・サイババ 述 牧野元三 和訳

「真実のサイババ」 三五館
青山 圭秀 著

「新世界訳 聖書」 ものみの塔

「ムー」 学研

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by saiyans | 2013-08-05 16:33 | 人間の霊性についての考察


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