ラーマの日記

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2014年 05月 12日

感覚の超越について


5階建てのビルがあって、地下に3階持っている。5階は五感を意味し、地下3階は潜在意識、無意識、超越意識(アートマン)を表す。

サイババが、「良いものを見なさい」と言うのは、感覚を清潔に保つことによって、深層意識に沈潜することが可能となるからだろう。熟眠から目覚めて顕在意識が機能し始めると、心の内的対話が始まるので、顕在意識層を支配している心を、知性が最善の仕方で導かないといけない。かつてブッダが家無しの生活を勧めたのは、世俗の生活では感官が不自然な社会化の要素で埋め尽くされてしまうので、本来の自然な営みができなくなるからだろう。

人間の体は左右対称で、この2つはビルのワンフロアの2部屋を意味し、それが上に5つあると思っていたが、実は横に5つあるのが理想なのだと思う。この5つを全て同時期に、上に進級させる必要がある。学校の勉強に主要5科目があるのは、そうした意図が内包されていたのだと気づいた。

芸術と体育は、「アートマン」と「ヨーガの実践」を意味し、通常の進学には重荷に見られているが、実は5科目を根底で支えているものなのだ。勉強する時も休憩時に音楽を聴くが、これは音楽などの芸術(アートマン)が勉強(5科目)を支えている有力な証拠だ。体育の目指すところの、健康と体力の維持も、5科目の上昇には不可欠だ。

大きな荷物を背負えば大きな苦しみが生じ、小さければ少ない。これが物理学を学ぶ本当の意図された内的意味なのだと思う。ニュートンなどの方程式で難しく学ぶ人もいれば、ほんの些細な世の動きや無常を感じることで、一瞬にしてこの世の本質を見極める者もいる。例えばプラティエーカ・ブッダ(独覚、1人で悟る者)と言われる段階にいる者は、木の枝から葉っぱが落ちるのを見て、世の無常を悟るという。前世の常習(修行)により、パッと悟って、一瞬で欲望を抜断し、道(修行)に入ってしまうのだ。

幼少期から世俗の事に無関心で、深い思索に没頭する傾向を持つ子供を授かったなら、人に道を示す人財かもしれないので、社会奉仕や修行法などを幼い内に仕込んでやって、世俗の垢に染まらないように導いてやるのが賢明だろう。

サイババが、五感を清潔に保ちなさいと言うのは、これを矯正せずにそのまま行くと、学年の上昇に障りがあるからだろう。事実、5科目全てが及第点に達していないと、人は進級を許されない。1科目でも及ばなければ落第する。この場合の審査官である「先生」とは、神のことなのだ。

上の学年に進むほど勉強は難しくなるが、これも五感を超えた究極の実在であるアートマンを手に入れるのが人間の最終目的だから、その得ることの難しさの比喩として、五感による認知を運命づけられた人間に与えられているのだ。まずは視覚を用いて読書したりして神を表層的に学び、熟達してきたら読書などの間接的知識には飽きるはずだから、その時に初めて、直接の認知を求めて修行に入るのだ。

人間は1日3時間くらい聖典の勉強をして13年くらい経つと、自然に修行の方に興味の内容が移行していくと思う。「なぜ、サイババやブッダ、イエス、空海のように、台本無しで流暢に自分は話せないのだろう?」とか、読書によって得られる成果物、一時的で相対的な知識に、だんだんと満足できなくなるからだ。

普通は霊的に進級すれば、彼ら聖者たちのように話せて、他者の病を癒せて、様々な神通力を行使できるようになるはずなのに、いつまで経っても彼らのような振る舞いができないとすれば、それは進歩が停滞している証拠なのだ。

自分は五感を汚して意識レベルを下げていないか、修行をサボッていないかなど、問題点を総チェックして早めに間違いを取り除くようにする。何よりも1人で出家できているかどうかが分かれ目だろう。インドの聖母アマチの例を除いて、偉大な魂は皆、出家というステップを踏んでいる。おそらく男の場合、勇気などの男らしさも試されるのだ。一方で女は、家の中で修行するのが理想なのだと思う。アマチは在家のままでもアートマンに到達できたから。


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by saiyans | 2014-05-12 17:01 | 人間の霊性についての考察
2014年 05月 12日

自分の持っている運を解脱に振り向ける


聖典「バガヴァッド・ギーター」の中で、神の化身クリシュナの言う“諸行為に於ける巧妙さ”というのは、自分の為すことの全てを解脱に振り向けることなのだと思う。

惑星の運行のリズムを見ると一目瞭然だが、木星は1つの星座を約1年で、土星は約2年半で移動する、というように、人生は苦しみの方が多めに見積もられているのが明らかだ。人生が“修行”と形容されるのも、このことを指しているのだと思う。

月、金星、木星などは通過時に福を授けてくれるが、これも福分を減損しないように注意する必要がある。というのは、最大の福星である木星が巡って来た時に、善行の貯金がスッカラカンになっていて、目的の成就に届かない可能性があるからだ。そのため、たとえ金星によって物質的富がやって来ても、スルーしてゲットしないでおくなどして、貯金の流出を防ぐ必要がある。

例えばサイババは、「幸福は良いことの蓄えを食い潰すので、本当は敵なのだ」と言っていたが、文明国の人間が毎日視聴するテレビも、知らない内に貯金を食い潰していると思う。そのため一般の、感覚を抑制できない衆生は大きな福に恵まれないし、最悪、解脱できずに輪廻してしまうのだ。木星期ですら無欲を貫いて貯金を蓄え、最後の最後、死後に備えて準備するのが、真の“諸行為に於ける巧妙さ”なのだ。

例えば乗り物では車が福の最大だと思うが、これも消費し続けると(乗り回していると)貯金の減損になるので、自転車を用いたり、家も平屋にしたり、結婚せずに独身を貫いたり、学校も中卒くらいに抑えて、仕事もアルバイトで満足するなどして、最後のパスポートを買えるように備える。福分の大きい人なら贅沢して消費しても問題ないかもしれないが、一般の私たちは最後に1円でも足りないとパスポートを買えないので、気をつける必要があるのだ。

こうした消費を抑えるのに1番有効な方法は出家の生活だろう。出家が何故、甘辛い物を食さないとか、異性と金に触れないなどの戒律があるかというと、戒律の厳守、禁欲の誓いが、最終的に肉体からの解放を約束するという堅い信念があるからなのだ。

ヨーガとは「神との合一」という意味だが、音楽に打ち込んで神曲を作れるに及べば、音楽に於けるヨーガに達したのだろうし、絵を描いていても同様に、絵に於けるヨーガにまで到達できれば、来世はインドに生まれ変われるかもしれない。


何人かのアガスティアの予言には、「生まれ変わりの最後の地はインド」と書かれているようだ。インドでブラーミンに生まれた生を最後に人間界を卒業し、聖山カイラスに戻るというのが、予言に見られる共通点だ。

「生まれ変わりの最期の生では、女と交わることは無い」とも書かれているそうだが、解脱の一歩前の人生は神聖な歩みが求められるのだと思う。青山圭秀さんもインドに寺院を建立したり、井戸を掘ったりと、慈善活動を沢山なさっているが、これらは大いに参考になる。

「生まれ変わりの最後の生では、神聖なことにのみ興味を魅かれる。車とか女とか、世俗のことにはサッパリ興味が向かない」 ラーマクリシュナ・パラマハンサの言葉より。

私は音楽を筆頭に、異性、金など、色々と欲望の対象があるので、あと何生か輪廻転生して、苦楽の体験を消費し尽くすまで、待たないといけないのかもしれない。



参考文献

「バガヴァッド・ギーター」 岩波文庫
上村 勝彦 翻訳

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by saiyans | 2014-05-12 17:00 | 人間の霊性についての考察
2014年 05月 12日

粗雑な科学から精妙な科学へと向かう人類


魂は肉体に囲われて生まれてくる。でも、肉体に拘束されて間もない頃は、アートマン(超越意識)の特徴である「無心の心の美しさ」を享受していられる。

大抵の家住者は、物質性に意識の焦点が固定されていると思う。生まれてから後、肉体をコントロールしていく過程で、物質界での在り方や生き方も吸収していくので、物質的な物の見方や考え方が支配的になるからだ。

様々なメディアから溢れる情報は、絶えず物質的所有に人々を導いて、低次の段階に人の意識を繋ぎ止めようとする。

霊的科学は形而上学と言われ、物理学などは形而下学と言われるのは、魂は生まれる時に上から下降して肉体に宿るために、つまり霊的次元という高次元から、物質次元に下降して来るために、形而下の場所、地上で自分の本性を思い出さなければならないのだ。

事実、人間は誰かが死んだら「あの人は天に帰った」と言う。これは上の次元に帰って行ったという意味だろう。

地上世界に於いて地上的学問を修めるというのは、地上に意識の焦点を固定する試みだから、フラットな移行を可能にするだろう。つまり、地上で生きて、死んだら少しの間ピトリ・ローカ(祖霊の世界)に戻って又、地上に生まれ変わるということ、地上から地上への平行移動だ。

もし、一つの生で前半生と同様に後半生を生きた場合、これは輪廻転生するのを避けられないだろう。学校で言うところの留年、ダブリという目に遭う。

有名大学の学生や科学者などは、ある種、地上でダブリまくっているために、頭がいいのだと思う。大人になった私たちが小学三年生になって、小学校の教室で学ぶようなものなのだと思う。神童に見られてしまう。

前半生は無知が原因で物質世界を彷徨っていたとしても、大概の人は生きている内に一度は霊的科学に遭遇する機会を得る。この時も物質科学を修めたのと同様に、段階を踏んで学んでいくのだ。つまり、まずは聖典の学習から入り、徐々に存在の核心(自分の本性)に意識の焦点を合わせてゆく。

霊的科学とは心の科学でもある。心とは何か?幼い頃は従順だった心は何故、成長と共に高慢やエゴ、貪欲に支配されてゆくのか?アートマンを見えなくするその心の闇、欲望とエゴを取り除いた人間とは、いかなる行為を為すのか?

幸いにして私たち現代人はインドのサティア・サイババやアマチを通してそれを知ることができる。この方々は講話をする際にも台本のようなものを一切持たない。ブログを書いている人なら分かると思うが、人間というのは文章を書いた後に、誤字脱字が見つかったり、修正を必ずと言っていいほど必要とするのに、アドワイタ(不二一元)の境地に住する者は修正を必要としないのだ。話した言葉がそのまま無修正で本になり、出版されてゆく。サイババは幼い頃、テストでも満点以外とらなかったので、変に思われて同級生や先生に叩かれたりしていたそうだ。

一つの魂が物質次元に降りて来ると(赤ん坊として、ある家に誕生すると)、その子は無自覚でも、その家系を霊的次元に上昇させる任が課せられていると思う。誰もが求める心の平安は、物質的アプローチでは得られないことを大人たちに教え諭し、少しでも霊性の理解を促し、生まれ変わりの苦しみから彼らを救うべく努力するのが使命なのだと思う。

浄土真宗では、解脱の道は、「行き易くして人無し」と表現される。“南無阿弥陀仏”と唱え続けていれば極楽浄土に往生できるので、信徒は唱えるのだが、この「仏の名を唱える」ということだけでも、簡単なのに殆んどの人は唱えないため、「行き易くして人無し」と表現されるのだ。

同様にアートマンも気づかれない。それは内にあり、かつ外にあり、無限に大きく、無限に微小なために理解されない。一般の仕事に従事する勤め人の数は絶対数として多いが、これは物質次元の仕事が五感に基ずく業務なために、感覚的に理解し易く、経験を共有し易いからだ。

しかし、音楽家の絶対数はそれよりも少ない。身の回りに、あまりいない。より霊的な仕事だからだ。これがアートマンの成就になると、ブッダ、イエス、空海、アマチなど、世界的に見ても数えるほどしかいない。感覚を超越している知識だからだ。このことが、アートマンが「究極の科学」と言われる所以なのだ。

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by saiyans | 2014-05-12 16:58 | 人間の霊性についての考察