ラーマの日記

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2015年 04月 09日

心の静けさと平和の関係


メキシコのヤキ・インディアンであるドンファンは以前、「わしら人間は生まれた時と、それから暫らくの間、ナワール(アートマン、神)そのものだ。しかし、周りの大人たちの強い力が影響して、その自然な状態を失っていくのだ」と言っていた。
(二見書房 ドンファン・シリーズ)

今回は私たちが周囲の大人たちから受ける精神的影響、ものの見方(偏見)などによって、どれくらい損をするのかを考えてみたい。この“大人”には、テレビ、ラジオ、雑誌などの中に登場する大人も含まれる。視覚と聴覚から入ってくる印象で、心は汚れるからだ。

ドンファンの言う、「本来の自然な状態」というのは、アートマン(超越意識、神)を実現した聖者ラマナ・マハリシも言っている。マハリシは、「心が鎮まれば世界全体が静まる。心こそ、すべての混乱の原因だ。それが静まれば、本来の自然な状態は、自ずから現れるだろう」と言っている。

確かに生まれた時と、それから暫らくの間、私たちは神(アートマン)そのものというか、無心の心の美しさを体験していられる。その静けさを享受できている。そしてこの純粋さは、あらゆる危害から赤ちゃんを守る。例えば古代中国の老子も、「赤ん坊を見てごらん。蛇も毒虫も咬みつかないだろう。タオ(アートマン)と1つになっているからさ」と言っているが、これは実際にテレビで実験が行われ、証明された。蚊も蛇も赤ん坊には寄り付かなかったが、大人には真逆の反応を見せた。蚊は大人の前に吸血鬼と化し、蛇は「シャーッ」と声を出して威嚇する反応を見せた。

これは漫画「北斗の拳」で、ケンシロウとラオウに対して虎が見せた反応を思い起こさせる。心が正義と純粋さに満ちたケンシロウの前に、虎はネコのようになり、欲望と権力の飽くなき飢えを見せるラオウの前に、虎は猛虎と化していた。

サイババは以前、こう言っていた。

「その人が、人間の内にも動物の内にも神(愛)を見ている限り、彼らは危害を加えることはない」

でも、カルマ的な意味合いで例外もある、つまり前世からの因縁で、虎に殺されて死ぬという運命の場合には殺されて死ぬが、そうでない限り、普通は大丈夫なのだという。


参考文献


「バガヴァン シュリ サティア・サイババとの対話」
J・S・ヒスロップ 著
牧野 元三 監訳
サティア サイ オーガニゼーション ジャパン


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by saiyans | 2015-04-09 00:42 | 人間の霊性についての考察
2015年 04月 08日

不良少年が社会の輪に戻るには?


不良少年が学校を卒業し、堅気の仕事をするようになると、会社の上司に無視されたりするかもしれない。

少年はその上司を嫌いになるだろうが、その上司は少年のダルマ(道徳性)の無さを感じて無視するのだ。道徳性を表す青色のオーラが弱くなっているために無視されるのだ。

ダルマの低い者は、ダルマの高い人に無視されるか、反発される。不良少年同士で気が合うのは、同じレベルだからだろう。

約束を破る、嘘をつく、与えられない物を取る、校内暴力、イジメ、先生や目上の人に対する敬意の無さ、これらを積み重ねることで、いつの間にか周波数が落ちており、気がついたらチャンダーラ(不可触民)になっているのだ。相性の合う合わないは、その時点の周波数の問題なのだ。

ラピスラズリという宝石は道徳性の権化なので、身に付けると一時的に道徳性の周波数が上がり、ダルマの高い人が良くしてくれるようになるが、体からラピスを外した途端、その人の元の周波数レベルに戻るため、他者はまた冷たくなる。

世に言う社会的ポストというのは、道徳性の順守による対価なのだ。

人は神の定めた運命に自分の自由意思を重ねて運命を書き換えるのだろう。過去の過ちに善行の償いを重ねることで、純白で美しい未来を創造できる。間違いを修正して上書き保存するイメージだ。

個人が自由意思を行使しようとする時、その成功率は、どれだけヨーガ率(神との合一度)が高いかで様々だ。

ヨギ(ヨーガ行者)は一切が可能。

ブラーミン(僧侶)は天と地を仲介したり、雨を降らせたり、ホーマ(護摩供養)を行うことで衆生を救済できる。

クシャトリヤ(武人・統治者)は井戸、橋などの公共事業が可能。上位のブラーミンにも施せる。祭祀が催せる。

ヴァイシャ(商人)は家族や会社の社員などに富を与えられる。

シュードラ(隷民)は他者に与えられないが、自分の面倒は見れる。

チャンダーラ(不可触民)は自分の面倒も見れない。

各カーストの違いは、「行為と規律」が神の定めたダルマとどれくらい合致しているかの違いであり、道徳性のランクなのだ。

ヨギは常人の理解を超えた道徳性の高さを有しているため、ダルマが上に突き抜けているタイプ。逆にチャンダーラは不道徳性が下に突き抜けている。日本はエロ関係の野放しで、来世はチャンダーラに生まれるであろう人々を養成してしまっている。まさに不可触民養成国家だ。

チャンダーラは4カーストにも入れないアウト・カースト。

メロディー(神)が全ての明瞭さを持っているからこそ、ハーモニーもベースも動ける。メロディーはそれのみで存在できるが、ハーモニーとベースはそれのみで存在(成立)できない。メロディー(神)が第一バイオリン隊だとすれば、第二バイオリン隊はブラーミン、メロディーの合いの手、対旋律を奏でるヴィオラは5度のクシャトリヤ、3度を奏でるセロのヴァイシャ、ルートのベースはシュードラ。

Aがアートマン(超越意識)を意味するなら、Bはブラーミン、Cはクシャトリヤかもしれない。ヴァイシャのBはオクターブ下のBかな・・・。シュードラはS。そこから8つ下がったオクターブ下のZがチャンダーラか・・・。チャンダーラも神の力の輪の中にいるのだが、あまりにも不道徳性を強化し過ぎてしまったために、ハーモニーに参加できないのだ。

ルートのシュードラ、3度のヴァイシャ、5度のクシャトリヤ、7度のブラーミンと来て、神は13度、下から長3度間隔で7番目にいるのだと思う。
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内声部にテンションの9度(レ)、11度(ファ)、13度(ラ)を入れると奥深い響きになるが、これは「上の次元の者が下の次元に入ると豊かさが増す」という啓示だと思う。ブッダしかり、イエスしかり、空海しかり。イエスが「天の父」と慕うサイババが化身して来るのは、さらにとんでもないことなのだ。

サイババは言う。
「小さな局地的な揉め事を鎮めるのには、巡査が行けば十分である。しかし、人類全体が道徳の堕落に脅かされている時には、警視総監、すなわち神みずからが出向かなければならない」

将棋棋士の羽生善治さんは15歳で経済的に自立。
将棋棋士の渡辺明さんは15歳で経済的に自立。
囲碁棋士の井山裕太さんは13歳で経済的に自立。
歌手の川瀬智子さんは18際で経済的に自立。

高潔で、霊的に高い魂は早期に自立する。

青山圭秀さんは13歳で中学の寮に入り、精神的に自立。現在では国連でスピーチしたり、慈善団体を作って社会奉仕をしまくっている。

「数え切れないくらい良いことをしていれば、やがては因果の宇宙に入ることができ、自ずから全て護られるようになる」とサイババは言っていたが、青山さんのブログを拝見していると、まだ交通事故に遭ったり、様々な困難を経験させられるようだから、因果の宇宙はもう少し先なのかもしれない。サイババの直接のダルシャン(謁見)に与り、神を見、話し、触れ合い、祝福されても、まだ護りが完全にならないとは・・・。サイババとは、本当に厳しい方なのだなと思う。

宇宙には、粗雑な物質の宇宙(顕在意識が認知する宇宙)、心の宇宙(潜在意識が認知する夢見の宇宙)、因果の宇宙(熟眠時の無意識状態で認知する宇宙)があり、この3つの宇宙を包括するのが、アートマン(超越意識)なのだそうだ。因果の宇宙に入るには、因果の口座に善行の功徳が充分に蓄えられる必要があるのだ。

因果の宇宙に入ると、どういうことが起こるのか想像してみると、例えばその人が車を乗っている時は信号がいつも青とか、蚊が刺さないとか、どんな人も自分に対してフレンドリーにしてくれるとか、ちょっと普通では有り得ないことが起こるのだと思う。木星、金星、月、水星などの福星が常にアセンダントに常駐するような感じになり、太陽を含む全ての惑星が彼に害を働こうとしても、福星の周波数がバリアになって護られるとか・・・。

かつて神々の王インドラは、人間として生きていた時に大変な努力をしたから、現在の地位に就くことができたとブッダは言っていた。

その努力とは何かをインド叙事詩「マハーバーラタ」から推測してみる。

「自分を柱と頼む妻子を養うのはもちろん、疲れた者には寝床を、立ち続けてくたびれている者には腰掛を、喉の渇いている者には水を、空腹な者には食べ物を与え、客にはにこやかな笑顔、陽気さ、快い言葉をもって対し、立ち上がり、すすんで出迎え、腰掛をすすめ、丁重に挨拶をすることを常に永久(とこしえ)のダルマ(道徳)とし、火供犠を行い、牡牛の世話をし、親戚、客、友人、息子、妻、召使いを大切にし、怠慢の罪から己を守った。理由も無く生物を殺めず、礼儀正しく提供されたものでない食事を喫せず、朝夕、犬や小鳥たちのために地面に食べ物を撒いてやり、お供えをした後の残り物を食べ、初対面であっても疲れた旅人に惜し気なく食事を振るまうことで、大きな功徳を積んだ」

「供犠、勉学、施与、苦行、真実、寛恕、感覚の抑制、欲望の放棄、これら聖典のいうところの八つのダルマに従った。誓言を固く守り、師に心から尽くし、食事を厳しく節制し、勤勉にヴェーダ(天啓聖典)を学び、卑しい行為を行わなかった」・・・はずだ。


私は、こうしたダルマ(道徳的価値観)を、家族や学校の先生たちに教えてもらえなかった。シュードラは利己的なために聖典から遠ざけられるとされるが、おそらく私が学校で出会った友人たちの中には、早くから聖典に出会い、人生の奥義を知った者がいたに違いない。ブッダ、イエス、空海のように、生まれた時に家人が聖典を有しており、その恩恵に与れる者というのは、祝福された人生が約束されるだろう。


サイババは以前、こう言っていた。
「16歳から30歳までの年齢は非常に大切です。その時期に才能や技術や態度が集積され、昇華され、神聖なものとなるからです」

「苗木は真っ直ぐに育つように手を加えることができます。しかし、いったん成木になってからは、その成育を矯正することはできません」とも言っていたから、早めに道徳的価値観の授与は行った方がいいのだ。

因みに古代中国の老子も、「人間は30歳までは柔らかくて、生命の仲間だ」と言っていた。

私は聖典に出会ったのが27歳の時だったからギリギリだったが、不良少年たちなんて、まだ18歳くらいだろうから、いくらでも矯正できる。でも不良少年は不良をやっているくらいだから、聖典から遠ざけられているだろう。この点をどうするかだ。学校で真面目に掃除をしたりなど、何か1つでも美徳があれば聖典に出会えるはずだが、夜中にバイクで騒音を撒き散らすことで、せっかくの善行もキャンセルされてしまう。そして充分に負のカルマ(行為)を蓄積したところで、土星期がやってくるのだ。

彼らは退学を喰らうかもしれないし、事故に遭うかもしれない。インド占星術は聖典の中にも説かれているため、インド占星術に出会えないということは、「土星期」なども知りようがない。

普通科の学校で勉強した内容は、実社会に出た時、役に立たないことが多い。このことから、高校への無駄な進学などは早期に見切って、不良少年予備軍は専門学校に進むべきなのだ。普通科にわざわざ入って、挙句に勉強がつまらないからイジメやケンカに明け暮れて、果てしなく運を落とし続けてチャンダーラと化すよりも、早期に専門性を身に付けた方が、どれだけ日本のためになることか・・・。中学校も2種類のエキスパートを育てるべく、2つに分けた方がいいと思う。

一般科目専門の普通学部と、技術や技能を教える特殊技能学部の2つに。「俺は普通科なんて行ったら絶対不良になる」と思ったら、特殊技能学部へ進み、「俺は特殊技能学部なんて絶対無理だ。不登校になるだろう」と思ったら、普通学部に行けばいいのだ。

中学校自体が専門学校化すれば、どれほど全国の不良少年たちが救われるか知れない。

知学の継続などは、将来先生や政治家になるとか、科学者を目指す者たちに限定し、色彩豊かに多様性を追求した方が、日本のイメージアップのためにも良いのだ。韓国はK-POPのアーティストなども戦略的に養成しているようだが、もし「日本は公教育の段階から専門性の獲得に尽力しているらしい」となれば、韓国や中国からでも、日本で学びたいと留学生が殺到するに違いない。

普通科の学校で嫌なテストを受けている暇があったら、セメントの作り方や重機の運転、車の運転の仕方を学んどけばよかったと後悔しても遅いのだ。

以前テレビで見たのだが、中学卒業後、高校へは行かずに3年間家で勉強し、東大に受かった人を紹介していた。その人の父親も、そのようにして東大に受かったそうだ。この“3年間”というのは、人によって、どのような使い方をしてもOKだろう。時間の使い方に関して自己規律は要求されるが、それでも学校で時間を無駄にするよりは遙かに有意義なものになるはずだ。問題は親をどうやって説き伏せるかだが・・・。

自分の職能の開発に専念しつつ、朝夕に公園のベンチでも雑巾がけすれば、功徳を積みつつ前進できるので、将来の成功は確約されるだろう。蒔いた種は直ぐに芽が出ないので、早くて7年、遅くとも13年は掛かると見るべきだが、その頃には、なんらかのチャンスが巡ってくるはずだ。

不良少年の逆襲は、不良中年になってからなのだ。


参考文献

「教育に関するサティア サイババのメッセージ-人格形成のいしずえ」
サティア サイババ 著
牧野 元三 監訳
サティア サイ オーガニゼーション ジャパン

「アガスティアの葉とサイババの奇蹟」徳間書店
深野一幸 著

「マハーバーラタ」第二巻 -森の巻- 三一書房
ヴェーダ ヴィヤーサ 著
山際 素男 翻訳

「神の詩-サイババが語る さとりへの道」
サティア サイババ 著
青山 圭秀 監修
宇野 梵悦 翻訳

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by saiyans | 2015-04-08 00:27 | 人間の霊性についての考察